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古代丹後王国

古墳時代になると、丹後半島には数多くの古墳がつくられるようになる。中でも、4世紀末ごろ築かれたと推定される日本海側最大の 2つの前方後円墳、網野銚子山古墳(網野町)と神明山古墳(丹後町)は、相当大きな勢力をもっていた一群が当時この地方に存在し ていたことを証明しているし、蛭子山古墳・作山古墳が所在する加悦町には、総数644もの古墳がひしめいている(加悦町教育委員会)。丹後はまさに古墳の宝庫と言ってよく、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。その上位3つは、・網野町の銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)-日本海沿岸部で最大の古墳・丹後町の神明山古墳(全長190mの前方後円墳)-丹後町古代の里資料館の側・加悦町の蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)-加悦町古墳公園内であるが、他にも著名な古墳として黒部銚子山など大型の前方後円墳がある。丹後の遺跡の多くが、竹野川に沿っている。この川は、1927年の大地震を起こした郷村断層に沿って流れ、大宮町と峰山町の間で断層を離れて丹後町へ向かう。

弥栄町と峰山町との境にある太田南古墳群の一つである「5号墳」からは、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。今年(2002)6月になって、東京国立博物館の鑑定により、個人蔵の鏡に同年号のあることが確認され、全国で青龍三年銘の鏡は3面となった。

鉄とガラス。この2つの出土物は、丹後地域の古代遺跡を語るとき、今や不可欠の要素である。1990年代以降の発掘調査の結果から、丹後地域は弥生中期後葉から後期(前1世紀~後2世紀)にかけて、日本列島のなかでもこれら大陸の先進素材を北九州と並んで、最も早く、最も多く集積した地域であることが明らかになった。弥生時代に製鉄が行われていたかどうかについては議論の分かれる所であるが、弥生時代を通じて行われた「鉄」の生産は古墳時代になっても続けられている。

奈良時代に隆盛を見た、最古の製鉄コンビナート遺跡である弥栄町の遠所遺跡(5世紀後半~6世紀後半と8世紀後半の一大製鉄遺跡が出土した。)。最古の玉造り工房跡である同じく弥栄町の奈具岡遺跡や、久美浜町の湯舟坂2号墳から出土した、明らかに権力者が所有していたと考えられる黄金の環頭大刀(重要文化財。6世紀後半~7世紀前半)など、古代丹後地方が大きな勢力をもっていたことを物語る遺物が数多く発見されている。

これらの事実から、最近いわゆる「古代丹後王国」の存在についての議論が盛んである。大陸や半島、北九州や他の日本海地域との交流などを窺わせる豊富な副葬品や、鉄とガラスの他地域に先駆けての先進性などを考えると確かに「王国」の存在を窺わせるに足る十分な条件を備えているように思える、しかし、私がその存在を強く予感するのは「墓制」の違いである。日本海側に、「四隅突出型墳墓」と言われる特殊な形をした墳墓が多いのは、歴史に詳しい方々なら既にご存知だろうと思う。主に日本海側に限って、広島県、鳥取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、四角形に盛り土した墳墓の四隅だけが長く伸びて、突出している墳墓の事である。この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについてはまた別の議論があるが、問題はこの形式が丹後地方には全く見られない事である。紀元前後、墳丘斜面を石で飾った丹後特有の方形貼石墓が出現するのだ。他の日本海側と同じく、渡来系の人々が日本海側に多く住み着いたのは容易に想像できるが、この丹後地方に上陸した人々は、四隅突出型墳墓を築く習慣を持たない集団だったと考えられる。そして「鉄やガラス」の製造技術に長けた集団だったのではないだろうか。門外不出のこれらの技術で製造した鉄製品、ガラス製品を主な交易品として、広く日本海側や畿内地方にその覇を広げていったと考えられる。


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