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小野小町

大宮町五十河

小野小町(小町公園)

小町公園

小野小町は平安時代を代表する六歌仙の一人です。絶世の美女であったといわれています。妙性寺のいわれを記した縁起には、晩年に都を離れ、天橋立を目指した小町が途中、五十河(いかが、現在の京丹後市大宮町)の住人、上田甚兵衛と出合い五十河を訪れ、この地で最期を迎えたと記されています。当時の五十河は「五十日」と呼び、「日」の字が「火」に通じることから、小町によって「河」と改められました。すると村の火事がなくなり、女性も安産になったという伝承が残っています。
五十河には小町の墓と伝えられる小町塚や、小町が開基したといわれる妙性寺があり、一帯は小町公園として整備されています。

京丹後市大宮町五十河
丹鉄京丹後大宮駅⇒車で約20分




小野小町(大宮町五十河)

小野小町ブロンズ像

大宮町五十河地区には、年老いた小野小町がこの地で病気になり亡くなったという言い伝えがある。五十河の「妙性寺縁起」によると、小町が晩年京の都から丹後へ旅をした。途中、福知山で五十日村の上田甚兵衛と出会い五十日村へ行くことになった。五十日村には火事が多かったため、「日」の字を「河」に変えることにより火事を治めた。小町がさらに旅に出ようとして急に病気になり、介抱のかいもなく、辞世の句「九重の都の土とならずして はかなや我は三重にかくれて」を残して亡くなった。住職と村民が「小野妙性大姉」と刻んだ墓を建て、守護仏の薬師如来を祀る薬師堂を建立した。また、小町を開基とする妙性寺を建立した。小町が亡くなった後に、都から深草の少将が訪れこの地で亡くなった。
そこで、「岡の宮」と追号し、墓を作って妙性寺の鎮守とした。とあり、小町の墓や位牌、小町が持っていたという鏡、お椀などが今でも五十河地区に残っている。その他、小町の遺跡として新宮から林道に通じる坂道を、昔小町が通って来た道というので「小野坂」といい、上田甚兵衛宅の場所を「小野路」と呼んでいる。小町は平安時代の歌人であるが、謎多き人物である。52代嵯峨天皇の弘仁6年(815)出羽国の郡司良真の子として生まれ、小野篁(たかむら)の孫とされているが確かなことは不明である。柳田国男の説では、小野小町は小野氏の伝承を語り歩く一群の巫女で、全国に36以上の墓があると明言している。小野小町は、出身や経歴など不明な点は多いが、六歌仙、三十六歌仙の一人に数えられるほど優れた歌人であったことは確かである。特に有名な和歌は、百人一首に収められている「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふる眺めせしまに」である。大宮町五十河の小町公園には黄金色の小町像が建てられている。


【参考図書】『もっと知りたい伝えたい丹後の魅力』
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