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細川ガラシャ

弥栄町味土野

細川ガラシャ(細川忠興夫人隠棲地(石碑))

細川忠興夫人隠棲地(石碑)

明智光秀の三女としてうまれた玉子(後のガラシャ)は丹後田辺城(現舞鶴市)の細川忠興に嫁ぎました。父が織田信長を討った本能寺の変の後、玉子は味土野(みどの、現在の弥栄町味土野)に幽閉されました。幽閉中、侍女の一人からキリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めるようになります。やがて洗礼を受け「ガラシャ」という名を授かりました。ガラシャは心の平安を求めながら、この山深い味土野の地で戦国に最中を過ごしたのでした。

京丹後市弥栄町味土野
丹鉄峰山駅⇒車で約50分




細川ガラシャ(弥栄町味土野)

戦国時代の武将、明智光秀の二女として生まれた。幼名を玉という。ガラシャというのは、洗礼名である。天正6年(1578)、織田信長のすすめで宮津城主細川忠興に嫁いだ。忠興、玉ともに16歳であった。忠興は、聡名にして美しい玉を愛し、玉にとっても幸せな生活を送っていたが、長くは続かなかった。天正10年(1582)、父である明智光秀が主君織田信長に反旗を翻し、京都の本能寺で信長を討ち取ってしまうことから玉の人生は狂いを来たしてくる。明智光秀の謀反は中国攻めの羽柴秀吉に伝わることとなり、武力対決は必死の様相を呈した。当然、明智光秀は娘婿の細川忠興に援軍の要請を出すことになる。しかし、この義父の要請を忠興は断ってしまう。そのため、忠興は、秀吉側に立つ人間として謀反人の娘を傍に置いておくことが出来なくなったのである。秀吉の命により忠興がガラシャを泣く泣く幽閉したのが弥栄町味土野である。居住地(女城)跡には、「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が立っている。男城は、谷を500mほど隔てた台地にあって警固の武士数十名が詰めていたという。秀吉が光秀を山崎の戦いで破ったのは周知の通りである。幽閉が解かれてからは、大阪の細川屋敷に住むようになり、そこでキリスト教の洗礼を受けたようである。秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が決定的になったときに、三成側に人質になるよう脅しを受けたガラシャは、これをきっぱり拒絶。屋敷に火を放ち家臣に自らを刺すように命じた。キリスト教徒は自害を禁じられていたからであろう。「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という辞世の句が残っている。僅か38歳の生涯であった。味土野の女城の近くには、ガラシャが植えたとされる藤の蔓が大木に巻き付き、今も薄紫のきれいな花を咲かせている。

【参考図書】『もっと知りたい伝えたい丹後の魅力』
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