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間人皇后

丹後町間人

間人皇后(間人皇后母子像)

間人皇后母子像

聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后(穴穂部間人皇女・あなほべのはしうどのひめみこ)は、6世紀末、大和政権の蘇我氏と物部氏との争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に、子の厩戸皇子(後の聖徳太子)とともに身を寄せたと伝えられています。
村人たちの手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際に皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。しかし村人たちは畏れ多いことから、皇后が退座したことにちなみ読み方を「たいざ」としたとされています。(諸説あり)

京丹後市丹後町間人
丹鉄網野駅⇒丹海バス乗車31分・「丹後町庁舎前」下車・徒歩5分




間人皇后(丹後町間人)

穴穂部間人皇后は、29代欽明天皇の皇女として生まれ、皇子橘豊日尊(31代用明天皇)の妃となり、聖徳太子を生んだ実の母である。この間人皇后は、血筋としては、蘇我稲目の孫ということになり、蘇我氏の系統の一族である。母は小姉君(おあねのきみ)で、32代崇峻天皇も生んでいる。母の姉である堅塩姫(きたしひめ)は、後に夫となる用明天皇、その妹で息子の聖徳太子が摂政を務めた33代推古天皇を生んでいる。まさに間人皇后は蘇我氏の全盛時代を生きていたと言ってよいであろう。ところが、間人皇后の実弟である穴穂部皇子が皇位を狙うようになることから権力抗争が表面化して来るのである。穴穂部皇子は、一説によると姉である間人皇后の夫の用明天皇を、物部守屋を使って殺害したとも伝えられ、用明天皇の後継ぎ争いに名乗りを挙げたのである。物部守屋は穴穂部皇子を立て、蘇我馬子は後の推古天皇を立てて厩戸皇子(聖徳太子)らと協力し、激しく争ったのである。間人皇后から見れば、実弟と息子・姪が争うのであるから、その心中はいかばかりであったろうか。この騒乱によって、実弟穴穂部皇子は殺害され、物部守屋も滅び去った。その後に天皇を即位したのが、間人皇后・穴穂部皇子の実弟崇峻天皇であった。こうした内乱を避けるため、間人皇后は由良川を下り丹後(大浜の里)にその身を移してきたのである。丹後町に今も残る間人(たいざ)の地名は間人皇后がこの地を去る(退座する)際に間人(はしうど)の名の使用を許したことに由来しているとされ、「大浜の里にむかしをとどめてし間人(はしうど)村と世々につたへん」との歌を賜ったと伝えられている。なお、間人皇后がこの地に滞在された間の館は、「御所の坪」と言われ、東山公園の辺りではなかったと言われている。

【参考図書】『もっと知りたい伝えたい丹後の魅力』
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