藤織り
衣服の原点伝える山の恵み
丹後訪織記⑥
山あいに棚田が広がる宮津市上世屋。6月上旬、稲苗が植わったばかりの水鏡が美しい集落を望む山中に、地元の藤織り作家齊藤麻弓さん(41)と分け入った。藤織りは山に自生するフジのつるで作る。紫色の花を咲き終えた花木のつるは、あちこちで木々に絡んで成長していた。齊藤さんははさみやのこぎりを使って収穫していく。
フジは赤みがかり、直径2~3センチが最も良いとし、「細いものは次に残しておく。他の植物を絞め殺してしまうほど強く、山のためにもなる」と齊藤さんは言う。
作業全てを自分で
つるは木づちでたたいて外側の鬼皮を剝がし、「アラソ」と呼ばれる中皮を使う。大鍋で木灰とともに煮て柔らかくする。川で竹の皮を使った道具でしごく「藤こき」をすると、不純物が取り除かれて白さが増す。
さらに根気のいる作業が「績(う)む」だ。繊維を裂き、手でより合わせてつないで糸にしていく。できた糸に糸車でよりをかけて強くして、ようやく機織り機の出番だ。齊藤さんは魔法のように糸を績みながら、「織物は分業が多いけど、藤織りは全部自分でやるのが面白い」とほほ笑む。
埼玉県出身の齊藤さんは、茨城県の結城紬や京都市の西陣織の織り手として働き、2018年に上世屋へ移り住んだ。齊藤さんが手機で織った生成りの藤布は糸の色にグラデーションがある。
「植物の日当たりや水分量で色が変わる。肌触りも優しい。よくぞ伝えてきてくれた」
藤蔓(ふじづる)の皮で布を織って常服とすることは山村一般の生活技術であった-。民俗学者の柳田国男は著書でこう記し、静岡県や奈良県、山口県の藤布の記録を挙げている。江戸時代の木綿の普及で藤布は廃れたが、冬に2メートルの積雪のある豪雪地帯の上世屋では、女性の冬仕事として藤織りが続いていた。
元府立丹後郷土資料館学芸員で上世屋に住む井之本泰さん(74)は藤織り技術伝承の功労者だ。
家族のため淡々と
1980年代に上世屋に企画展の調査に訪れると、いろり端で糸を績む高齢女性の姿があった。藤布は畳のへりや餅を蒸す敷布に重宝された。「おばあさんが孫や娘のために淡々とやっていた。心根に触れて尊いなあとほれ込んだ」。
井之本さんはこの「おばあさん」を講師に招いて85年、藤織り講習会を始める。上世屋で毎回1泊2日の日程で年間計7回開くと、全国から受講生がやってきた。「野良仕事の合間を縫って、季節の巡りの中で一反織り上がる。背景やものづくりの楽しさを伝えたかった」と話す。
伝承者は亡くなったが、2024年まで続いた講習会をきっかけに齊藤さんのような後継者が現れた。技法は石川県や長野県に広まる。講習会を担ってきた丹後藤織り保存会の会長、坂根博子さん(68)=宮津市溝尻=は帯やストール、草履などの創作の傍ら、藤織りを学びたい人に技術を教え続けている。
6月11日には上世屋の藤織り伝承交流館に島根県大田市の団体職員大野志津香さん(48)が訪ねてきた。フジを鍋で煮た後、川で藤こきを体験した。大野さんは神話にも登場するフジでお守りを織りたいといい、「全工程が職人技で大変だけど、頑張りたい」と意欲を見せた。
交流館には藤織りに使われる機織り機もある。機織りは踏み木を踏んで開けた経糸(たていと)の織り口に緯糸(よこいと)のシャトルを投げ入れる。経糸を強くするのりを施す作業も必要で、かつては2人一組で行った。
「おばあさんたちは作業を手伝うことを『合力(こうりょく)』と言った。力を合わせ、人に家族に寄り添う心が藤織りに宿る。全国にあった藤織りを各地で復活させたい」と坂根さんは願う。
山の恵みから糸を作り、仲間とともに「合力」で織る。現代では忘れられた、衣服の原点を山里は伝え続ける。
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