2026.08.06|

織機供出「お国のために」
戦争とちりめん産地
丹後訪織記⑦

祖父が織機を供出した中江さん。向かって左は明治時代建築の元工場、同右は建物が供出されて戦後に再建された元工場(京丹後市丹後町間人)

織機が大砲や弾丸となってお国のために役立ってほしい-。

太平洋戦争下の1943(昭和18)年、京丹後市丹後町間人の中江榮一さん(79)の祖父勝郎さんは、縮緬(ちりめん)の白生地の工場にあった織機45台全てを供出した。榮一さんの母の手記に、織機の「壮行会」が記されている。勝郎さんは織機に酒を供え、涙ながらにあいさつして万歳した…。

「大平洋軍需」と書かれた資料の中にある生糸で作られた金網代用織。

「家族から出征兵士を出せなかった祖父は、金属を全部供出した。時代の雰囲気に同調してしまった」と榮一さんは思う。

勝郎さんは大正時代に工場を創業し、1927年の北丹後地震(丹後震災)の被害も少なかったため、規模を拡大する。昭和初期の縮緬は宣伝活動の強化や生糸の暴落で「黄金時代」を迎えた。

丹後織物工業組合史によると、34年には機業戸数は1434戸、織機台数は1万2140台に達する。

一方で、日中戦争が37年に起こり、国家総動員法が制定されて軍需産業優先や配給統制が強まる。和装業界に大打撃を与えたのが40年の奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則(通称=七・七禁令)だった。

金糸や銀糸などを使った織物は「贅沢品(ぜいたくひん)」として販売を禁止。「贅沢は敵だ」のスローガンも広まる。勝郎さんが織機を供出した43年は米英との太平洋戦争の情勢が不利になった。丹後で約1万台の織機が供出され、工場は軍需に転用されて廃業が相次いだ。

海軍の飛行場に

吉村商店に残る峯山海軍航空隊員の写真。戦後に訪ねてきた人もいた(京丹後市峰山町)
峯山海軍航空隊の巨大な木造格納庫を紹介する荒田さん(京丹後市峰山町新町)

勝郎さんの工場の建物も解体され、「河辺の飛行場」の兵舎として利用される。

この飛行場は、同市峰山町と大宮町の境に建設された峯山海軍航空隊の基地だ。44年3月から活動した同隊は、「赤とんぼ」と呼ばれた練習機による飛行訓練が任務だった。

「美しい水田が滑走路に変えられて飛行場になった。練習機は布製で訓練中に事故で亡くなった人もいる。最終的に隊員は、鹿児島の鹿屋や山口県の岩国などの特攻基地に送り出された」と、大宮町河辺地区の荒田保次区長(75)は語る。今でも現地には巨大な木造格納庫や弾薬庫が残り、荒田さんは保存運動に尽力する。

格納庫を所有する峰山町の縮緬製造販売「吉村商店」には航空隊の隊員の写真が残る。

戦時中に経営を担った5代目吉村彌太朗さんの四女緑さん(84)は休暇になると、実家が遠くて帰郷できない隊員が自宅に来て、両親が世話をしていたという。商店の工場では「航空隊員の軍服と白っぽい落下傘の生地を織っていた、と姉から聞いた」。

緑さんは、戦時中に織られた「クレバネット」と呼ぶ生地を見せてくれた。国防色のカーキ色で丈夫だ。京都府織物・機械金属振興センター(峰山町)に生地を分析してもらうと、斜紋線が特徴の綾織(あやおり)で絹製だった。

井澤一郎・技術支援課長は「洋装の生地で経糸(たていと)の密度がかなり混み、緻密な織物」とみる。戦時中、府織物試験場だった同センターには「大平洋戦争軍需」と表書きされた資料がある。試し織りされた布地がつづられた中に雨衣用クレバネットを見つけた。航空浮衣や防空幕、金網代用織のほか、落下傘に使われた羽二重も研究されていた。丹後地域が軍需生産の一端を担っていたことがうかがえる。

吉村商店に残されていた「クレバネット」と呼ばれる生地。府織物・機械金属振興センターの分析で絹織物と確認された。

空襲受け死者も

軍需工場の記憶を持つ人を訪ねた。

同市弥栄町和田野の由良隆生さん(89)で、父は地元の工場の織物技術者だった。45年に舞鶴へ出征したが、見送りにきた峯山航空隊の幹部が由良さんに告げた。「お父さんは軍にとって大切な仕事をしているから数日で帰ると思う」。言葉の通り、3日後には工場に戻った。織機240台が稼働する工場は敵機の機銃掃射を受け、「弾が織機にあたって飛び跳ねて大変」と話したこともあった。

終戦間際の45年7月30日。「河辺の飛行場がやられた」。由良さんは峰山方面の上空で急降下を繰り返す戦闘機を目撃した。滑走路に爆弾がさく裂。3人が死亡し、国民学校の校舎も被害を受けた。

織機供出、軍需品生産、空襲…。戦争は縮緬産地の丹後に多大な犠牲を強いた。

 

Copyright ©京都新聞