丹後ちりめんの誕生
窮状救った技術革新
丹後訪織記②
約300年前の絹布(けんぷ)には、「丹後ちりめん」の特徴とされる凹凸の「シボ」がはっきりと残っていた。京丹後市峰山町の禅定寺で昨秋、絹織物ゆかりの地を巡るツアーに参加した服飾、デザイン関係者らが寺宝の布に見入った。江戸中期の1720年、細かなシボのある絹織物「縮緬(ちりめん)」を丹後地域で初めて手掛けた絹屋佐平治が奉納したものだ。
丹後ちりめんの誕生の経緯を、郷土史家岩崎英精さん編集の「丹後ちりめん始祖伝」(1965年出版)を基にひもときたい。
縮緬に先立つ丹後の産物として、南北朝時代の教育書「庭訓往来(ていきんおうらい)」は、絹織物「精好」を挙げる。京の都で武家や僧侶に浸透するなど、織りの技能が息づく風土だった。
室町中期から大阪の堺を拠点に中国・明との貿易が盛んになり、さまざまな織物が輸入される。絹の縮緬も含まれ、その技法は京都の西陣織へ。江戸時代に入ると、高度な技術を誇る西陣が栄える一方で、丹後の従来の織物は不振が続く。1700年前後には凶作にも襲われた。
300年前の「お告げ」
この窮地を救ったのが、今に続く丹後ちりめんだった。逸話は興味深い。
禅定寺の古文書によると、絹屋佐平治は断食をして寺に7日間こもり、観世音菩薩(ぼさつ)に妙策を祈願する。7日目の夜、西陣で縮緬の技法を学んでくるよう夢告があった。
お告げに従い、西陣の機屋で半年間修業して峰山に戻ったが、縮緬を再現できない。もう一度、菩薩に請うと、シボを作る要点を教えられた。
「(シボは)車の仕業でその車の仕法こそ、秘事である」
佐平治は再び西陣へ向かい、夜間に「車」のある部屋に忍び入って暗闇の中で仕掛けを探る。覚えて帰り見事、製織に成功した。
古文書が伝える佐平治の行動は、「命がけだった」。安田秀俊住職(65)は「丹後の暮らしをなんとかしたい、その一心だったんでしょう」と、故郷の偉人を思いやる。
シボを生む秘けつは、緯糸(よこいと)に撚(よ)りをかけることだ。織り上がった布を熱湯で洗う「精練」を施すと、絹に含まれるタンパク質セリシンがなくなり、撚りが戻って凹凸ができる。佐平治が苦心して調べた「車」は、撚糸(ねんし)機とみられる。
実際の撚糸機を見せてもらった。明治期から続く老舗の織物会社「丸仙」(与謝野町岩滝)は、旧式の「八丁撚糸機」を扱う。
工場では、大きな天井車が回ると、ひもでつなぐ24個の小車が連動して回転する。小車に生糸を巻いた管を取り付け、水を注ぎながら糸を出して木製の枠に巻き取っていく。
糸は「静輪」と呼ばれる重りに通され、張りが調整される。ここで製造する絹の風呂敷には太い糸が必要で、八丁撚糸機は欠かせない。訪ねた日は1メートルにつき、1800回の撚りを糸にかけた。「原理は江戸時代と変わっていない」。作業を担当する堀口嘉一さん(72)はみる。
文化育む礎に
佐平治によって、この「撚り」の技術を手に入れた峰山のまちは次第に繁栄する。約1万石だった峰山藩は以後、縮緬の製造を奨励し、佐平治には功績をたたえて「ちりめんや」ののれんを授けた。同じ時期、隣の宮津藩の加悦谷(現与謝野町)でも、3人の「始祖」が現れ、縮緬の機音は広がる。
「峰山藩は石高の少ない小藩ゆえに、縮緬を通して安定的な収入を得た」。こう話すのは金刀比羅神社(京丹後市峰山町)の脇阪卓爾宮司(58)だ。
神社は同藩主の京極家が1811年に建立。社殿群は約100年前の丹後震災で倒壊して再建されたものだが、境内は2万平方メートルあり、花街だった「琴平新地」にも近い。「震災前の祭りでは、小さなまちの規模に合わない30基もの屋台が出た絵図が残る。縮緬が文化を育んだ」と脇阪宮司は感謝する。
境内の木島神社には近江商人が納めた、狛犬(こまいぬ)ならぬ「狛猫」が鎮座する。猫は絹糸をはく蚕を食べるネズミを退治してくれる。
遊び心ある石像から技術革新がもたらした当時の物心両面の豊かさを感じた。
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