丹後で精練 苦難経て悲願
大震災を乗り越えて
丹後訪織記④
加工場内に並ぶ釜から湯気が上がる。作業員が釜からつり上げた鉄枠には、「丹後ちりめん」になる絹織物がかかっている。
京丹後市大宮町の丹後織物工業組合(丹工)で行われる精練作業だ。絹糸は、フィブロインと周囲を覆うセリシンの2種類のタンパク質で構成される。
精練は、石けんなどを加えた熱湯で絹全体の25%を占めるセリシンを洗い落とす。ごわごわとした生地は、光沢のあるしなやかな地風に生まれ変わる。
「精練で糸が縮んで隙間ができ、緯糸(よこいと)の撚(よ)りが戻り、(凹凸の)シボが生まれる。ちりめんには欠かせない工程です」。安田智幸事務局長は話す。絹織物は乾燥や縮んだ生地を広げる「幅出し」を経て、目視でチェック。厳しい検査を通過して初めてブランドマークが押される。
組合による精練が始まったのは、約100年前にさかのぼる。それ以前は丹後で織られた「生縮緬(きちりめん)」の多くがそのまま京都の問屋に出荷、精練された。
京問屋から反発
これでは、精練して見つかる不具合や完成時の風合いを、丹後の機業家らが確かめられない。京問屋から返品や代金引きを押しつけられる不利な立場を強いられ、「粗製濫造」の原因にもなった。
「京都での精練に不信感があり、『国練(くにねり)』は丹後の悲願だった」
そう話すのは、江戸時代の1830年に現在の京丹後市峰山町で創業した縮緬問屋「吉村商店」相談役の吉村孝道さん(85)。丹後国内での精練を意味する「国練」の実現に4代伊助が尽力した。
国練への動きは1914(大正3)年、丹後へ視察に訪れた農商務省の商工局長が、生縮緬での出荷の不利益や経営の自立を指摘したことに始まる。翌年に峰山町の精練業者らが「国練期成同盟」を結成するが、京都の精練業者や問屋はこれに強く反発した。
一方で、丹後の繁栄とともに国練の機運は高まっていく。
第1次世界大戦によって国内各地は好景気に沸く。組合史によると、19年の丹後の機業戸数は1759戸、織機は約6千台、従業員は約2万人で、生産額は戦前の約7倍に。縮緬の主要な産地としての地位を確立した。
同じ年、峰山町長や衆院議員を務めた伊助は、「縮緬王」とうたわれ、近代和風建築の粋を集めた別荘「桜山荘」も建てた。
21年には与謝、中、竹野の各郡を統一した丹工の前身「丹後縮緬同業組合」が発足。初代組合長は宮津市の弁護士で衆院議員を務めた津原武だった。副組合長の伊助は、丹後に工場5カ所を造る精練会社社長に就いた。
織機8割不能に
しかし、国練の準備中に災禍が襲う。網野町を震源とする丹後大震災が27年3月に発生した。マグニチュードは阪神淡路大震災と同じ7・3。夕食時だったため火災が相次ぎ、死者は約3千人、家屋被害も約3万棟にのぼり、8割の織機は使用不能に。峰山町は「見渡す限り唯一面の焼野原である」と、直後に被災地に赴いた旧福知山町職員が「慰問日記」に記している。
震災後、丹後の機業は驚異的な復興を遂げる。わずか10カ月後に織機の台数は震災前を上回る。「震災半年後には織機が動き始めた。最新の設備が入り、生産性がさらに上がった」と、丹後の歴史に詳しい福知山公立大の小山元孝教授はみる。
震災で義母を亡くした伊助だったが、精練工場建設を進めた。28年2月の衆院選で再選されるが、津原は最下位当選者と17票の差で落選する。だが、伊助はその翌月、国練検査の実現を目の前にして病死してしまう。
苦難を経て、国練検査は同年9月1日に始まる。津原は「丹後縮緬にとっての大革命であらねばならぬ」と誓った。丹後ちりめんの声価は一層高まり、津原は「中興の祖」と呼ばれることになる。
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