ご成婚で復活 1千万反
ちりめん黄金期
丹後訪織記⑧
皇太子だった上皇さまと上皇后美智子さまが、ご成婚されたのは1959年4月だった。元織物工場を活用した観光施設「丹後ちりめん歴史館」(与謝野町岩屋)の壁には、結婚披露宴にあたる御内宴時に撮影された、若き日の2人と昭和天皇ご夫妻が並ぶ写真が掲げられる。展示の理由は、豪華絢爛(ごうかけんらん)な美智子さまの着物の生地を手がけたのが、かつてこの地にあった織物会社「大啓産業」だったからだ。
美智子さまは、初の民間出身の皇太子妃として、国民の関心を集めた。今井浩介館長(44)は「同じ着物がほしい、と丹後に注文が舞い込んだと聞いている。丹後ちりめんが黄金期を築くスタートになった」と話す。
丹後織物工業組合史によると、戦後、日本は食糧輸入の引き換えになる「見返り物資」の輸出を進めた。戦時中の織機の供出で深刻な打撃を受けた丹後でも、米国向けの服地用織物が生産された。
腹巻きに札束
50年の朝鮮戦争の勃発で繊維や金属業を中心に特需があり、丹後も好景気に沸く。高度経済成長期に入って国民生活が落ち着くと、和装に注目が集まり、59年のご成婚で絹の着物は「完全復活した」と言われる。
歴史館近くで和装生地を織る「ワタマサ」の渡邉正義会長(76)は、全盛期の大啓産業について「島根県から女性がたくさん働きに来て、寮に入って地元の高校の定時制で勉強した。地域もにぎやかで産地に希望があった」と振り返る。
日本人の普段着は和装から洋装に移りつつも、着物は結婚式や成人式、訪問着といった晴れ着として需要が高まる。渡邉さんによると、需要に対応して自社工場で織るだけでなく、下請けの「出機(でばた)」が増加した。70年代、生糸価格が暴騰してちりめんが高値で販売された時には「取引のない問屋が腹巻きに札束を挟んで生地を買いにきた」と明かす。
丹後ちりめんの全国宣伝も展開された。丹後織物工業組合では53年から有名女優の着物姿のポスターを制作する。第一弾は有馬稲子さんで、その後、若尾文子さん、吉永小百合さんらが続いた。56年の司葉子さんが着た着物を見せてもらうと、花の模様が印象的なカラフルなデザインが目を引く。ポスターは71年からカレンダーに変わり、多岐川裕美さんや山口智子さんらを起用して平成まで続いた。
丹工に70年に入社して宣伝業務を担当した山中篤嗣さん(79)=京丹後市網野町浅茂川=は、名取裕子さんとの写真撮影の思い出や、歌手五木ひろしさんをモデルに男性着物の売り出しを仕掛けた経験を懐かしむ。「丹後ちりめんのテレビや雑誌への露出を増やし、全国で着物ショーが開かれた。丹後ちりめんは絹の高級品として知れ渡った。嫁入り道具としてタンスに着物を詰めてもたせる人が多かった」。
丹後の白生地生産の最盛期は、73年の約1千万反(1反12メートル換算)で、織機は約3万9千台に上った。反物をつなげると地球3周分。昨年の生産反数の約100倍にあたる。組合史は織機を動かせば万の金がもうかる「ガチャ万景気」に沸騰したとする。
山中さんの隣家の元織物業田茂井康悦さん(83)は70年代の黄金期を体験した。浅茂川には田茂井さんを含めて自社で撚糸(ねんし)から製織をする織物業者「手張(てばり)」が十数軒あった。
「新車を網野にもっていけば売れるといわれていた。芸妓(げいこ)さんがいた峰山の新地や京都の祇園にもよく行き、お金をつかった」
海外から逆輸入
しかし、好況は長く続かなかった。73年10月、中東戦争に端を発した「オイルショック」が起きた。物価上昇による買い控えで、高級路線の和装需要は激減する。
翌年には国内の養蚕農家を保護するため、輸入生糸を蚕糸業界団体が統制する「生糸一元輸入制度」が導入され、織物業者は低価格の生糸を手に入れにくくなった。「工賃の安い韓国や中国などに糸屋や商社と一緒に生産拠点をつくって逆輸入する機屋も出てきた」と、田茂井さんは安価な輸入絹織物に苦境の一因をみる。
この後、丹後の生産反数は下降線をたどることになる。
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