2026.09.28|

婚礼や美術、西陣織の技継承
農山漁村に出機
丹後訪織記⑨

西陣織の帯を織る池田さん(伊根町本庄浜)

潮風かおる漁村に西陣織の帯を織る機音が響く。伊根町本庄浜の織物業池田万里子さん(79)は、作業場で朝から日暮れまで力織機を動かす。西陣の織元からの指示に基づいて織る「出機(でばた)」で、色を先染めした糸で色柄を織り込んでいく。後染めの丹後ちりめんの白生地とは手法が異なる。

池田さんは丹後半島最北部にある蒲入地区で20歳から機織りを始めた。与謝野町出身の母が漁業者ばかりの村に織機を初めて持ち込んだ。以後、集落に機織りをする人が増えるきっかけになる。

結婚を機に転居した本庄浜は、「定置網漁が中心の漁村で機を織る女性が多かった」と言う。「機織りをやってきて良かった。自宅で仕事ができ、子供や親の面倒もみられた。頑張れば生活できる…」

西陣織は先染めの紋織物で、生産の歴史は平安時代までさかのぼる。室町時代に京の都で起きた応仁の乱の西軍陣跡を指す、西陣地区で高級絹織物として発展してきた。

舟屋に機音響く

伊根町誌はその導入の経過に詳しい。高度経済成長期の昭和30年代後半、農業は減反政策、漁業は乱獲で漁獲量も減る。現金収入が求められる中、西陣織が与謝野町に進出し、工賃の安い農家の主婦を中心に浸透した。

伊根町でも、1960年に織機2台でスタートし、ピークの75年は機業世帯は364戸、織機685台に達した。

訪日客でにぎわう舟屋群にもかつて機音が響いた。10年前まで帯を織った白數芳子さん(85)=亀島=は「周囲には舟屋に織機を置く人が多かった。2階を民宿にし、朝から機を織っているので『寝られない』と宿泊客から文句を言われた人もいた」と笑う。

西陣織の盛衰の影響を受けつつも、丹後地域は今も重要な生産拠点だ。

西陣織工業組合によると、80年代には2000億円を超える出荷額があったが、2024年には150億円に減少した。出機軒数も2008年の1947軒から、23年には617軒に。丹後の出機は23年分の73%を占め、西陣織の主要な帯の7割は丹後産という。

織り手の高齢化が進む中、丹後で西陣織の後継者をつくる取り組みが始まっている。

西陣織の婚礼衣装大手「幸和」(京都市北区)は、2018年に与謝野町岩滝に自社工場を構えた。工場では最大60色にもなる多彩な生糸を使い、振り袖、色打掛(うちかけ)や白無垢(しろむく)を織る。稲荷澄・総務経理部長は「西陣では機音がどんどん聞こえなくなっている。丹後は京都市内に比べて地価が安く、織物の産地だけに人材確保や織機調整の面でも環境が整っている」と説明する。

最新は「原宿系動画クリエイター」でインフルエンサー・しなこさんと協働した婚礼衣装で、パープルが輝くポップなデザインだ。

西陣織の技術を公開するオープンファクトリーもある。京丹後市網野町の「西陣織あさぎ 丹後クリエイティブセンター」。細密な絵柄が織り込める「1800口織ジャカード織機」が稼働し、製織作業を見学できる。

幸和の婚礼衣装や反物。右がしなこさんと協働した色打掛(与謝野町岩滝)

祖父母の姿見て

精巧な西陣織で織られた名画の織物(丹後クリエイティブセンター)
1800口のジャカード機を使って西陣織を織る沖野さん(京丹後市網野町・丹後クリエイティブセンター)

美術館を併設して金やプラチナを施した絢爛豪華(けんらんごうか)な帯のほか、琳派や浮世絵からゴッホ、印象派まで名画を織りで表現した美術工芸品を展示。暗闇で光る蓄光糸で仕立てた葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は圧巻だ。

着物を扱う商社「塚喜商事」(京都市下京区)が2024年に開いた。製織の中心を担ってきた丹後の出機が高齢化し、後継者を迎え入れようとしたが自宅兼工場の例が多く困難だったため、自社で工場を建てた。センターの木本正樹マネジャーは「普段は名前の出ない織り手が主役になる場所。西陣織の伝統の技術を残していきたい」と意気込む。

織り手の沖野修平さん(26)は出機をしていた祖父母の姿を見て職人を志した。「繊細な織物で大変ですが、織り上がった瞬間に達成感がある」と語る。

出機として丹後の農山漁村に浸透した西陣織。織物の最高峰と評される京の技が丹後で継承されていく。

 

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