揺らぎの美 絹の原点
復元し歴史見つめる
丹後訪織記①
蚕の繭から作られる絹。人は古来、虫が吐き出す糸をつむぎ、衣服としてまとってきた。そんな悠久の歴史を感じる、赤色の絹織物の反物がきり箱に納められていた。
約1300年前、奈良時代の739(天平11)年に「丹後国鳥取郷」から税として朝廷に納められた絹織物「絁(あしぎぬ)」。今も東大寺(奈良市)の正倉院に保存されており、反物は1981年に宮津青年会議所のメンバーが復元した逸品だ。中心を担った織物業牛田宏さん(84)=与謝野町三河内=にその一部を見せてもらった。
京都府北部の丹後地域は、凹凸が特徴の絹織物の白生地「丹後ちりめん」の産地だ。ちりめんが始まったのは江戸時代で、絁の復元は「丹後の原点」を探る取り組みだった。
牛田さんは当時の製法を知るため、宮内庁正倉院事務所を訪ねる。そこで紹介されたのが、古代繊維遺物の研究者で京都工芸繊維大教授を務めた布目順郎さんだった。
座繰り糸の風合い
布目さんが示した制作条件を基に、繭から手で引いた熊本県産の「座繰り糸」を取り寄せ、織りは宮津市山間部の上世屋地区で手機を続けていた女性に依頼。織物作家や染料店の協力を得て、わら灰で不純物を取り除く精練を施し、多年草のアカネで染め上げた。
復元品を見た牛田さんは、座繰り糸が生み出す「風合い」に魅了される。「座繰り糸が細かったり、太かったりすることで生まれる、まさに『揺らぎの芸術』。発色も深みがあった」と話す。
その後、福知山市で専門の製糸業者を見つけ、座繰り糸だけで作る白生地「天平聖武絹」の着物を自社で商品化した。復元した絁を東大寺に奉納した1984年以降、この聖武絹も感謝を込めて毎年納め続けている。
「絹は肌ざわりや保湿性に優れ、身にまとうものとしてこれに勝るものはない。茶道といった日本の伝統文化も支えている」
弥生期には存在
絹織物は中国が起源という。布目さんによると、国内では九州北部を中心に弥生時代に絹の遺物が出土しており、3世紀の中国の歴史書「魏志(ぎし)倭人伝」も、日本で蚕の餌の桑を栽培し、養蚕をしていたことを記す。
では、丹後での発祥はいつか-。
京丹後市丹後町の丹後古代の里資料館には、円板状の中央に穴があいた、小さな土器片が展示されている。棒を通して糸をつむぐ「紡錘(ぼうすい)車」と呼ばれる道具で、弥生時代の紀元前2~3世紀の環濠(かんごう)集落「扇谷遺跡」(峰山町)から32個が見つかっている。
糸が残っていないため、絹かどうかは不明だが、集落からは近畿地方で最古とされる鋳造した鉄斧(てっぷ)も出土。200年頃の今市墳墓群(大宮町)でも、絹糸が巻かれた痕跡が残る鉄製の「やりがんな」が確認され、これらは絹が弥生時代に丹後にあったことを物語る。同市教育委員会文化財保存活用課の岡林峰夫課長補佐は「海に面した丹後半島は、朝鮮半島や中国の最新技術や文化が入る土地だった」とみる。
絁を献上した「丹後国鳥取郷」は、現在の同市弥栄町鳥取にあたる。その周辺では、古墳時代から奈良時代の原料から製品を含む当時最新の製鉄遺跡が見つかっている。
鳥取の集落を訪ねると、日本海に注ぐ竹野川を望む丘に「絁の碑」が建つ。近くを歩くと、家々から「ガチャン、ガチャン」と機音が聞こえてきた。
その一軒の坪倉二美枝さん(66)が工場内を案内してくれた。2台の織機がリズミカルに動く。聞くと、西陣織の帯やコートを織っているという。19歳から織物の道に入った坪倉さんは「母親を見て機織りを覚えた。この仕事が好きだからこれからも続けたい」と笑みをこぼした。
連綿と続き、発展してきた丹後の織物の営みを原点の地で垣間見た。
丹後地域は着物の白生地の国内シェア7割超を誇り、西陣織の生産基地としても、和装産業を支え続けている。丹後の織物の歴史と現在地を訪ねる。
Copyright ©京都新聞




