明治期 輸出への挑戦
織物見本帖「橋立」
丹後訪織記③
外国向けと書かれた赤色の布地には大きな花柄の模様があしらわれる。国内向けの白生地は「丹後ちりめん」の特徴の凹凸「シボ」に加え、織り方によって複雑な線や柄の紋が表現されている。いずれも明治時代の技術の高さと、海外を意識した生地作りが見てとれる。
与謝野町の文化財として、2月に指定された丹後最古の織物見本帖(ちょう)「橋立」だ。1908(明治41)年頃に制作され、国内外用の織物見本計65点を貼る。
江戸時代に縮緬(ちりめん)の技術をこの地に伝えた一人とされる人物の直系で、織物工場・西山機業場(同町加悦、後野)を開いた杉本家に長く保存されていた。
同町教育委員会社会教育課主幹の加藤晴彦さんは「カタログとして使われた可能性が高い。外国向けは洋装の生地だろう」と推測する。
生地開発競う
織物見本帖からどんな背景が読み取れるのか-。今月に同町であった、丹後の繊維産業史を研究する北野裕子さんの講演を軸に、時計の針を戻したい。
江戸末期の1858年、徳川幕府は鎖国から開国に転じ、蚕種と生糸が最大の輸出品になる。さらに、明治政府は付加価値の高い織物の輸出も目指した。
京都府では、72(明治5)年に西陣からフランスへ派遣された留学生が、ジャカード機を持ち帰る。ジャカード機は穴の開いたパンチカード「紋紙」を使って経糸(たていと)を上下させる織機で、これによりさまざまな紋様(もんよう)を効率的に織れるようになった。
このジャカード機を丹後で初めて明治20年代に取り入れたのが杉本家だった。織物見本帖ができた明治末期の西山機業場は、三つの工場と工員の寄宿舎など30棟を誇った。機械動力式のスイス製「力織機」と、ドイツ製石油発動機も導入し、外国人技術者の指導を受けた。
明治期の丹後の織物は国内外で高く評価される。1900年のフランス・パリ万博では丹後から9人が出品し、大宮町(京丹後市)と加悦の織り手が銅賞や褒賞を獲得。国内でも03年の内国勧業博覧会(大阪府開催)で一等賞1人、二等賞6人、三等賞62人の好成績を収めた。
また、織物見本帖には「実用新案登録」と記された生地もある。杉本家は緯糸(よこいと)に撚(よ)り糸と撚りのない平糸を並列した独自の「橋立縮(ちぢみ)」を開発した。輸出への挑戦にとどまらず、「丹後の人たちが競うように新しい織物を開発していた姿がみえてくる」。北野さんはこう話す。
紋紙、今も現役
西山機業場は、縮緬工場や商家の建物が残る国の重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」の一角にある。街道を歩くと、近くの「羽賀織物」から機音が聞こえてきた。
ここでは丹後ちりめんの白生地を手がけ、紋紙を使ったジャカード機も現役で活躍する。白生地は問屋を通じて京都や加賀、東京の友禅染などに使われるという。羽賀信彦さん(46)は「白生地は染まって初めて商品になる。生地の織りや紋によって着物に光沢が出たり、角度で見え方が違ったりする」と誇らしげに語る。
街道沿いの自宅で晴れやかな着物やひな人形を展示する時岡やちよさん(73)に会った。羽賀さんの親類で両親が2003年まで白生地を織っていた。着物はその生地で長女の節目の年ごとに仕立てたものとか。「蚕の命をもらう貴重なもの。縮緬の良さを伝えたい」と言う。白生地の細やかな凹凸によって染め柄が引き立ち、色にも深みが出ているよう。
明治期に西洋技術を取り入れて発展した丹後ちりめんは染めと合わさり、美の逸品として庶民にも広がっていく。
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